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2022-05-25

定廣好和氏インタビュー(1)- 造山古墳周辺の古図

インタビューについては、下記画像をクリックしてください。YouTubeビデオを見ることができます。

造山古墳およびその陪塚に関連する言い伝えの事項をインタビューを通じて掘り起こすプロジェクトを進めている。今回は、造山古墳周辺の古図について定廣好和氏に話を聞いた。
1.日時:2022.4.28.(木)
2.場所:国際美術研究所
3.インタビュー:造山古墳蘇生会長 定廣好和氏
4.インタビューアー:角谷賢二
5.内容:
(1)三垣信治氏が収集した造山古墳に関する資料をその息子の三垣茂雄氏から定廣好和氏が入手した。その中から造山古墳周辺の古図について現在古図持ち主の定廣氏に説明いただいた。
(2)説明いただいた古図は、明治20年に地方自治制実施用として策定された切絵図を元に、西岡馨氏が昭和60年に調整したものである。
(3)造山古墳の陪塚は、地元では「7つぐら」と呼ばれていた。現在は6つである。7つ目が「シングリ山」と呼ばれていたが、その場所には現在は民家が建っている。
(4)この地図には、池が明確に描かれている。現在その場所を「池の中」と呼んでいるが、すでに田になっている。
(5)新庄車塚古墳があった。現在はすでに削平されている。畔が円弧状に残っていることから円形の古墳があったことがわかる。明治20年には、この地図からはすでに田に削平されていたことがわかる。
(6)周堤が2本書かれている。第一周堤の内側は池と予想されるが、明治20年には田として描かれている。第ニ周堤は鉛筆書きである。
(7)岡山大学の研究者が発掘調査して、第一周堤は確認できた。第二周堤はボーリング調査しているが、明確にはわからなかった。
(8)第二周堤の畔と思われる部分がほんの一部残っている。興味深いことに第一周堤と並行に存在する。このことは第二周堤の存在の一つの証拠となる。
(9)明治20年の切絵図には、造山古墳の西側に黒く塗ったところがあり、その部分は沼のようであったと思われる。

 

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