定廣好和氏インタビュー(4)-1887年の古地図に古い地名を記入
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造山古墳に関連する言い伝えの事項をインタビューを通じて掘り起こすプロジェクトを進めている。今回は、定廣好和氏に1887年の古地図に古い地名を記入した地図が完成したとのことでインタビューをお願いした。
1.日時:2022.8.15.
2.場所:造山古墳ビジターセンター
3.インタビュー :定廣好和 75歳
4.インタビューアー:角谷賢二 72歳
5.内容:
(1)もともとの地図は、明治20年(1887年)地方自治制実施用として作成したA4サイズの地図を1970年に西岡馨氏が繋ぎ合わせて作ったものを利用した。いびつな部分もあるが、全体が写し出されている。
(2)もともとの地図には、造山古墳の後円部の円弧に沿って田んぼが2列に並んでいた。これが堀や周堤が存在した一つの証拠と見ている。
(3)カラー化しているところの説明で、まずは沖(おき)、ここは水が満々とたたえられていた。葺石を足守川の奥の黒谷池の近くから運んでくるのに都合のよい地形であった。
(注)現在は耕地整理された田んぼになっており、稲作が盛んである。
(4)それに関連して陸揚げができる船着(ふなつき)という名前が残っている。
(5)さらに掘返(ほりかえし)というところがあり、周堤を崩して堀を埋めたということがわかる。このことからも堀、周堤があったということが類推できる。
(6)堂の元(どうのもと)、北裏(きたうら)、西裏(にしうら)は普通に場所を示している。堂の元はお堂が建っていた可能性がある。定かではないが、お堂のもとには石橋があって堀を渡っていたかもしれない。
(7)私が小さい頃は、後円部を城の辻(しろのつじ)と呼んでいた。子供の頃は何のことか不明であった。その後、城の辻は高松城の水攻めがあった時、毛利軍の陣(要所)があったことが由来とわかった。
(8)蔵田(くらんた)は、くらんたと読む。これは田んぼの名前で、今も小字の名前として残っている。
(9)ここには書いていないが、蔵田の近くに鴨屋(かもや)があった。現地では(かまや)となまっている。鴨は、今の加茂に繋がっていると思う。
(注)我々二人とも加茂小学校の出身である。
(10)ここ造山古墳の南側は、地獄田(じごくた)である。その横に私が衝撃を受けたシングリ山がある。屋号としてはどうもなじまない。やはり山があったのだと思う。シングリ山古墳かもしれない。1970年に西岡さんは、シングリ山に隣接した地獄田に明治20年(1887年)の地図から円弧状のでっぱりがあったことを指摘している。彼はここは古墳ではないかと考えている。
(11)この地図には、第7号古墳らしきところが第3号古墳の西に円として書かれている。私は、シングリ山古墳とこの第7号古墳を入れて造山古墳の陪塚としては8基あったかもしれないと思っている。
(12)造山古墳および榊山古墳の西側に大きな岩が4つあったかもしれない。このことから四つ岩(よつや)という名前が残っている。その岩は、古墳を削平したときに出てきた岩だと思われる。
(13)造山古墳の西側には、大きな沼があったので、西沼(にしぬま)の地名が残っている。西沼は今も小字名になっている。かつては沼であった証拠として今もトラクターを使っている時に滑り込むことがある。
(14)西沼を埋めたのは、近くの古墳を削平するときの土砂を使っているだろうと思う。この古墳はこの地図に書かれていない別の古墳らしき樫グロからも運んでいたと思う。
(15)江戸の末期、新庄車塚古墳が削平され、その土砂が全部沼を沼を埋めるにに使われたのは周知のことである。
(16)古墳のあったところは削平された後、畔が円弧として残っている。この新たな場所(樫ぐろ)にも円弧の畔が残っている。円弧の畔から、私は新たな古墳があったことは間違いないと思っている。
(17)今回の伝承物語は、学術的にはまだ未解決のところを掘り起こすこともひとつの目的と考えています。したがって、上記の指摘も古老の意見として残したい。(角谷)
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