新納泉先生インタビュー(1)-古地図を基に造山古墳周辺の周濠と地名について-
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新納泉先生に1887年の切り図を調整した大きな古地図を基に周濠、古い地名、陪塚などについてインタビューした。
1.日 時:2022.10.11.
2.場 所:造山古墳ビジターセンター
3.インタビュー :新納 泉 70歳
定廣好和 76歳
4.インタビューアー:角谷賢二 72歳
5.内容
第一部 西岡馨しが調整した古地図(前頁参照)と古い地名(対談形式)
(1)(新納)西岡馨氏の調整した古地図について、かなり広い範囲がきちっと縮尺を合わせて、そして土地区画がよく示されており非常に興味深いものである。
(2)(新納)私自身はこれよりももう少し古い段階で作られた切図を見ているが、細かい部分は切図のほうがよくわかる。これは全体がよくわかり、非常に重要な図と思う。ひょっとするとこの古地図は、西岡氏が切図を調整して作っているかもしれない。調整は向きとか縮尺がひょっとすると手が入っているかもしれない。そういう不安はあるが、、、。
(3)(新納)この地図には、名称が入っているのですか?
(4)(定廣)地名は私が調査して入れた。
(角谷)この地図は、元の図を描いた人がいて、西岡氏が切り合わせて、最後に定廣会長が地名を入れた。次に地名について話を進めたい。
(定廣)今のお母さんは、後円部の城の辻(しろのつじ)を知らない。私たちは、小さい頃から城の辻の呼び方を知っていた。高松城の水攻めの時の毛利方の陣があったので城で、辻はてっぺんという意味である。
(5)(新納)私が調査していた時、地元のかなり高齢の女性から頂上のところで、ここは城と呼んでいるところがあると聞いた。ただその方は、城の辻とは言わなかったように思う。城と呼んでいた。後円部の墳頂平坦部の全体を呼んでいるのか、その中で分かれているのかはっきりとは覚えていない。今にして思えばなんでそれをきっちりと記録していなかったのか悔やまれるところである。
(6)(角谷)次に沖という地名があるが、昔は海(潮)か川があったという証なんでしょうか?
(新納)おそらくそうだろうと思う。後円部の左の上(北裏あたり)を発掘した時に製塩土器がでてきた。塩作りの土器である。塩は海から離れたところで作ることもあるが、一つの手がかりとして海が遠くないと考えてよい。
(7)(角谷)近くに船着(ふなつき)という地名が残っている。
(定廣)船着は、一枚の田んぼではなく、いくつかの田んぼをまとめて船着の田んぼと呼んでいる。
(角谷)足守川や瀬戸内から船で船着まで来て、物資や石を運んだのではないか?
(新納)それがいつの時代のことか判断は難しい。船着であれば、川すじで上がってきている可能性もあるかと思う。仮に船着の地名を残しているとしてもそのあたりの評価は簡単ではない。
(8)(定廣)堀返し(ほりかえし)は、小字で残っている。やはり堀を返した、昔から堀だったところを埋め立てた意味かと思う。
(新納)それはよくわからない。
(9)(定廣)堂の元(どうのもと)については、荒神社が今は上の前方部にあるが、はるか昔は下にあった。祠を少しお堂のようにしていたものがあった。それを前方部にあげている。それでここを堂の元という。
(新納)荒神社が下の方から上にあげたという話は聞いていたが、その元がここというのは初めて聞いた。
(10)(角谷)四つ岩(よちや)という地名が残っている。別の方のインタビューでは、そこにはおそらく4つ岩があったであろうと言っていた。今は一つだけ第2古墳の横に残っている。それが4つの1つではないか?
(定廣)やはり名称から推測すると、天井石らしき岩が4つあって、それを削平する時に一塊に置いていたのではないか。
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