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2022-10-27

新納泉先生インタビュー(2)-造山古墳周辺の周濠について-

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【内容】

第二部 周濠の存在(新納先生の解説)
(1)造山古墳の立地は、近畿地方の大きな古墳の立地とは全然違っている。
(2)近畿地方の古墳は、台地上に作られているので、台地上の周りに濠を掘って、そして土を盛るというのが適していた。造山古墳の場合は、小さな丘陵から平地に移っていく場所に造っている。そのため、近畿地方のような形で周りに濠をしっかり掘って、それで盛るということはできない。

(3)それは、技術が劣っていたということよりも、この地域の地形の特性だと思う。そのために一部に濠を造るということで対処しているのではないか。それが一部だけにとどめるという意図だったか、技術的な問題で一部にせざるを得なかったのか不明であるが。それと標高がだいぶ違うので、後円部の方が低くて、前方部の方が高いので一周を回るような濠を造るのは無理である。しかし、後円部のこの図の左上あたりは少なくとも一重の濠を造っていたことは確かだろうと思っている。

(4)発掘調査は、合計だと5ヶ所なしは6ヶ所発掘している。この図でいうと、後円部の左側、後円部の左上、くびれ部の上、前方部の右、前方部の端近くの部分、これだけ調査している。

(5)それで、地獄田、前方部の前の部分については、掘り下げた1mくらいのところに非常に固い岩盤がでてきた。ただ残念ながらそこからは埴輪の破片とか転がり落ちている葺石とかはでていなかった。したがって、それが濠の跡であったか意見がやや分かれる。ただ、それが堀でなかったらいつの時代にそんな大工事をしたんだろうかという問題が残っているというのは皆が認めるところである。

(6)後円部あたりは、濠らしい堆積土と、その濠の外側に堤を造っている盛土が3ヶ所で確認できた。その場所は、後円部の(地図でいえば)左側、堀返しのところ、くびれ部の上あたりである。それで、一番よく残っていたところは、堀返しに近いところである。

(7)外側の堤の高さは、残存しているのは、せいぜい50cmくらいである。したがって、それより高かったのだろうと思うが、後の時代に平坦化している。ただ、その濠の部分は、底に非常に黒い土が溜まっていて、宮内庁の方にも見ていただいたのだが、その状況というのは近畿地方の天皇陵の濠のあり方と特に違いはないということであった。腐植土がかなり長い期間で堆積していた。

(8)そこで、この発掘調査で年代的に絞り込めたのは、外側の堤を造る直下の層から古墳時代初頭の土器がある程度まとまって出てきた。出てきたのは、ちょうど堀返しに近いところからである。したがって、古墳時代初頭よりも新しく堤が造られていたことは確かである。

(9)濠の斜面のところから埴輪片がペタッとくっつくような形ででているので、それは堀が古墳に伴うと考えることのできる可能性の一つでもある。だけど、埴輪片は後の時代にもくっつくので確実ではない。

(10)その濠の黒い堆積土の上半分のところから10世紀の土器が出土している。したがって、古墳時代初頭よりも新しくて10世紀よりも古いというのが考古学的に絶対確実である。黒い堆積土がそんなに長い期間に渡って堆積するのは不自然だと思っていたのだけれど、ただ天皇陵なんかも同じようなことなのだそうである。黒い堆積土は、20cmから30cmくらいである。ゆっくりゆっくりゆっくりと堆積しているのだと思う。

(11)このくびれ部の外側のところを発掘調査した時の結果としては、かなり湿った土地であっただろうというのがでている。私は、地図の上の部分には堀があったというのは間違いないと思っている。

(12)むしろ問題は、畔の屈曲するラインがあるが、その外側にも屈曲した跡があり、それが2重の周濠を表すかどうかということである。その部分については、発掘調査はしていないが、地中ボーリングを断面が取れるように何ヶ所かに入れた。残念ながら、それは完全に土が攪乱されていて、その部分は発掘調査しても何も出てこないのではないか。したがって、この屈曲している外側のラインは、何らかの遺構が残っているというよりも、土地所有の関係で残ったか何かで、そういうラインができているのか定かではない。ただし、削平される前に2重の周濠があった可能性というのはまだゼロではない。

(13)この(堀返し)の辺りの発掘調査で外側のもの(濠とか周堤)を確認するのは難しいと思うが、前方部に近いほうで将来的に何か手がかりがでてくる可能性はある。



 

 

 

 

 

 

 

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