toggle
2022-06-15

「備中国都窪郡新庄下古墳」和田千吉-備中国吉備郡史(上巻)531頁から532頁, 昭和46(1971)年9月28日発行

 和田千吉氏が1971年に書いた文章では、造山古墳が本当に古墳かどうか軽々しく決めるべきでないと言っている。しかし、前方部の上に石棺があることまたこの地から出土した埴輪が民家に存在することなどから、和田氏は古墳と考えている。また、この石棺は、当時の村民が語るところによれば1971年から70年ほど前に宮の前から出たと書かれているところも興味深い。さらに、下記の地図では、陪塚が10基描かれており、現在陪塚は6基とされていることからして、これも興味津々である。和田氏は、7,8,9,10の陪塚の存在根拠をいかに見出したか知りたいところである。(角谷コメント)

備中国 吉備郡史(上巻)531頁から532頁 昭和46(1971)年9月28日発行
「備中国都窪郡新庄下古墳」 和田千吉からの引用

 備中都窪郡加茂村大字新庄下に古墳の群集せるあり、古く新庄の「七ツクロ」と称す(クロとは塚の?なるか)其大なるものを造山と云ひ、西南に向へる前方後円の一大古墳たり、此北々西に約二丁(218m)余を距てて車塚と称する円形古墳あり、又西南即前方に当り約数丁(数100m)の間に多数の円形古墳の散布せるものあり。此地岡山より矢掛に通ずる道路に接し、三方は山に面し西は山間を通じて国分寺付近の古墳群に連続す、東には向陽山あり、北南に又山を距てて日畑西組の古墳群あり、南は千足山より次第に山脈重畳し、唯東北の一方開け足守川を距てて水攻を以て有名なる高松に相対す(第一図)造山は字造山にあり、前方後円の大古墳にして、長約四丁(436m)、最高所は約五十尺15m)、西南に向へり、表面には樹木の生ずる外、畑あり、元城址なりしと、前方部頂上には荒神社あり、傍らに彫抜にして組合式の形に造りたる珍しき石棺と又社の他の傍に蒲鉾形石棺蓋の残缺を存せり、何れより発見せられたるものなるや詳ならずと雖、村民の語る處によれば、此石棺の蓋は約七十年前、此宮の前より出で、石槨等なかりしと元来瓢形古墳よりは、前方と後方の二か所に石槨又は石棺の存するもの往々これあり。石槨の立存するもの下総印旛郡龍角寺・上野群馬郡植野等其一例にして、石棺の雙方に存せし例として近く河内国南河内郡山田の瓢形墳にみえたり、されば此造山にも前後に石棺の存せしやも知るべからずと雖も、あるいは後円部のものを前方部へ移動せしにあらざるか、こは全部の調査に也ざる俟たざるべからざるを以て此研究は他日に譲るべし、然してこの造山の全部が、果たして古墳なりや否やは軽々しく決定すべきにあらず形状まことに、瓢形古墳として見るべきものも、時に自然の丘陵なりしこと往々経験あるところなれば、余は実践の際之が證跡を見出すべく勉めたるに、幸せ山腹造山部落の一民家に埴輪円筒の半ば完全なるものを有し、そは造山に於いて開墾中発掘せり、此種の形状を見るべきものは発見せること多からざるか、村民も此一個の外見たることなしと云えり、(其後円筒破片の発掘せられたるを実見せり)円筒は現存部底径八寸三分(252cm)高九寸(273cm)あり、されば多くは、古く自然に露出して失われしか、未掘当らざるか、兎も角古墳たるの證を得たり、造山の名同郡三須に在り、地方的名稱を古墳に冠せる例としては播磨の千壺、上野の權現山、雙子山、河内の千塚、武蔵の百穴等尚多かるべし、造山の又然りとす。

【安川満氏コメント】2022.6.15.

 和田千吉の文章は1919年の「考古学雑誌」第9巻第11号掲載のものを採録したものです。『吉備郡誌』も1936年に刊行されたものの再版です。ですので70年ほど前は1850年頃のこととなります。
 陪塚が10基描かれている図は和田千吉の図ではなく、永山卯三郎の図です。7、9、10号墳は千足の東西に延びる丘陵上にある古墳で、最近行ってみてないですが、内2基はまだあると思います。いまは陪塚とは扱われていません。8はおそらく葛原克人さんが周堤の痕跡とした造山古墳南西側の方形の土壇のことだと思います。いまは古墳とは扱われていません。発掘調査でも何も出ませんでした。

 

 

関連記事

コメントを残す