「阿部主計頭宿」の宿札についての考察 坂田賢治 -2024.9.9.公開-
広島県三原市沼田東町の坂田家には、「福山の殿さまが我が家に泊まった。」との言い伝えがあり、その際の宿札(十一月四日付阿部主計頭宿)が残っている。図1にそれを示す。だが、本陣は本郷にあり周辺に寺院も多いことから、少し離れた坂田家に宿泊したとは、疑問が残る。そこで、この宿札について長州征伐と関連付けて考察した。
<疑問1:福山の殿さまとはだれか?宿札に記載の11月4日とはどんな日か?>
福山藩阿部家で主計頭(かずえのかみ)を名乗っていたのは福山藩阿部家9代目阿部正方(まさかた)と10代目最後の藩主であった正恒(まさたけ)の2名である。福山市発行「福山市中巻 幕末福山藩の動向」1)によれば、元治元年(1864年)徳川幕府は諸藩に命じて長州藩を攻撃させたと記述されている。俗に第1次長州征伐と呼ばれているが、この際に阿部正方(17歳)率いる福山藩も総勢6000人で広島にて他藩と合流すべく元治元年11月3日に広島に向かって出陣した。この際に3日尾道、4日本郷、5日四日市、6日海田市と宿泊・経由している。残念ながら宿泊・経由したことしか情報が残っていない1)。坂田家には、この際に宿泊したのではないか。
<疑問2:なぜ本陣から離れたところに宿泊したのか?>
諸藩に動員が命じられており、本郷本陣周辺(非常時の御退宿とされた円光寺含む周辺寺院等)は他藩に押さえられており、空きがなかった。総勢6000名で動いており、相当広い範囲に宿泊した中で上座があった坂田家に宿泊したと考えられる。
<疑問3:宿札は1枚だけか?>
福山市発行「福山市中巻 幕末福山藩の動向」1)によれば、慶応元年(1865年)幕府が第2次長州征伐を命じた際、福山藩阿部正方(19歳)は総勢3000人で出兵しているが、その際は府中、上下、三次、浜田と宿泊・経由している。上下の宿泊は専教寺で、その時の宿札(12月11日付)も残っている。図2には、上下町の専教寺所蔵の宿札を示す。ところが、2024年7月に上下町(郷宿であった旧高木邸)で専教寺のものと同じ12月11日付の宿札が見つかった。図3には、この上下町高木邸所蔵の宿札の写真を示す。坂田家の宿札は今回発見の宿札のような立派なものではなく、また上下町で「阿部主計頭宿」の同じ日付の宿札が2枚見つかったことから、坂田家の宿札は家来が泊まったもので、正方本人宿泊の宿札は別に存在するとみるのが正解のように考える。本郷周辺の寺院等で新たに同じ日付の宿札が見つかればはっきりするのであるが、現在のところ見つかっていない。
東京の阿部家から福山市に寄贈された文書2)の中に征長に関するものが含まれているので研究が進めばまた新たな発見があると思う。さらに調査を継続する。
(写真は府中市上下歴史文化資料館より提供)
参考文献
(1)福山市発行 福山市史 中巻「幕末福山藩の動向」p1139-p1141
(2)東京阿部家資料(第1次)No.8第1次征長日記、No.185征長関係日記etc.
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