造山古墳周辺の古地図-明治20年頃
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この古地図は、三垣信治氏が収集した造山古墳に関する資料をその息子さんの三垣茂雄氏が定廣好和氏に寄贈したものである。現在定廣好和氏が保管している。今回定廣好和氏の要請でこの古地図をデジタル化した。古地図の元は明治20年(1887)に地方自治制実施用として策定された切絵図から、西岡馨氏が昭和60年(1985)に調整、編集したもので、現在コピーとして残っている。
この古地図のトピックをまとめると次のようになる。(1)造山古墳の陪塚は、地元では「7つぐら」と呼ばれていた。現存は6つである。この古地図では、7つ目が第3号古墳の近くに痕跡がある。8つ目は「シングリ山」と呼ばれている場所に存在していた可能性がある。その場所には現在は民家が3軒建っている。 (2)この古地図には、池が明確に描かれている。現在その場所は「池の中」と呼ばれているが、すでに田になっている。 (3)新庄車塚古墳が存在した。現在はすでに削平されている。畔が円弧状に残っていることから円形の古墳があったことがわかる。明治20年には、この古地図からすでに田に削平されていたことがわかる。 (4)周堤が2本書かれている。第一周堤の内側は池と予想されるが、明治20年にはすでに田として利用されていた。第ニ周堤は鉛筆書きである。 (5)岡山大学の研究者が発掘調査して、第一周堤は確認できた。第二周堤はボーリング調査しているが、明確にはわからなかったとのこと。 (6)第二周堤の畔と思われる部分がほんの一部残っている。興味深いことに第一周堤と並行に存在する。このことは第二周堤の存在の一つの証拠となる。 (7)明治20年の切絵図には、造山古墳の西側に黒く塗ったところがあり、その部分(現在の馬場)は沼のようであった。
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