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2022-05-27

定廣学氏・安川満氏インタビュー(3)-榊山、千足、シングリ山など

インタビューについては、下記画像をクリックしてください。YouTubeビデオを見ることができます。

造山古墳に関連する言い伝えの事項をインタビューを通じて掘り起こすプロジェクトを進めている。今回は、定廣学氏・安川満氏、定廣好和氏に造山古墳群の地名についてインタビューを行った。
1.日時:2022.5.14.
2.場所:造山の定廣学氏自宅
3.インタビュー:定廣学 72歳
         安川満 54歳
         定廣好和 74歳
5.インタビューアー:角谷賢二 72歳
6.内容:
(1)造山古墳群の古墳の地名について対談を行った。
(2)6基ある陪塚で名前があるのが、榊山古墳と千足古墳である。小字の名前をそのままつけている。字の榊山にあるから榊山古墳、千足にあるから千足古墳と名前をつけているだけである。(定廣学)
(3)明治末の盗掘でこの地域の古墳が注目され、和田千吉という研究者が東京から調査に来て、学会誌に報告したのが世に出る最初である。その時は新庄下の古墳となっていた。(安川)
(4)その時には、造山古墳本体は地元では古墳だと言っているが、古墳かどうか疑わしいとしている。学会では当時は造山古墳は古墳だという認識ではなかった。(安川)
(5)それから10年ほどして史跡指定になる。その時は造山古墳となっている。造山古墳は字自体造山なので、古くから人口の山だとして伝わっていた。(安川)
(6)他の古墳も名前をつける必要から、史跡指定の時に番号をつけた。第6番まで史跡指定になった。(安川)
(7)地元では七つグロと呼ばれていた。ほんとうに7つかどうかわからない。津島の夏黒古墳群は実際は10数基あるのに7つグロと呼んでいる。たくさんあるのを”なな”と呼んでいる可能性はある。(安川)
(8)シングリ山という地名が残っている。名前の由来はまったくわからない。シングリ山があってその向こうが榊山といってどちらも山がついている。(定廣好和)
(9)明治20年(1887年)の絵図にはシングリ山にはRがついているところがある。昭和60年(1985年)にその地図を調整した方は、シングリ山を古墳の跡としている。今は民家が建っている。(定廣好和)
(10)地元ではシングリ山には3軒あり、屋号となっている。(定廣学)
(11)永山卯三郎は、造山古墳周辺の古墳を7基あげている。方位と規模で書いている。これによると7つ目は、3号墳と4号墳の先にある丸いところとしている。(安川満)
(12)定廣会長も言われたように、8つ古墳があるのではないか?(角谷)
(13)永山卯三郎も当地が区画整理されたり、開墾あるいは造成されたり、池が埋められたりした後の明治の終わりごろの状態を見ているので、その前がどんなふうになっていたかはわからない。(安川)

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