三垣千秋氏インタビュー(3)-造山古墳頂上にて
造山古墳に関連する言い伝えの事項をインタビューを通じて掘り起こすプロジェクトを進めている。今回は、三垣千秋氏(72歳)に造山古墳中央部から後円部付近でのインタビューを行った。
1.日時:2022.4.7.
2.場所:造山古墳中央部頂上と後円部頂上
3.インタビュー:三垣千秋氏 72歳
4.インタビューアー:清家章、角谷賢二
5.内容:
(1)三垣千秋氏が小学校の時には中央部は松林であった。1945年ごろ大きな松の木1本を切って母の兄の家に家を新築するため総社まで運んだ。北西面も以前は松林であった。
(2)造山古墳の頂上には畑があっていろいろな野菜を作っていた。その時のなごりのフキが今も生えている。
(3)1970年ごろ岡山市(旧・高松町)が古墳を買い上げてから、古墳がジャングル化したので村人で草を刈った。その刈った後に青年団が中心に桜の木を1列植えた。その後町内の村人も加わり、2列を植えた。40年から45年まえのことである。現在3列ある。1965年ころ皇室の三笠宮様が造山古墳を参拝された。 千足古墳も視察して、その時に石室の水を抜いて中に入った。その時は、私も中に入っている。そこにはきれいな直弧文があった。
(4)中央部の東面は、段々畑で野菜や果樹を植えていた。果樹は特に柿の木であった。当時は、畑があって石積みがあって、その段々畑は非常にきれいだった。今も石積みは残っている。
(5)後円部横には出っ張りがある。その出っ張りは、秀吉が高松城の水攻めの時に毛利方の陣がここにあり、その見張り台を作ったところである。この時は、頂上の土塁、見張り台、登り道などが造られた。古墳への登り道は各家の間にあったが、市が山側の石積み(土留)を築造した。そのため登り道も変更された。
(6)頂上も全面畑であった。穴が空いていた覚えはないが、上で飛び跳ねるとドンドンと響いていた。
(7)母の話では、盗人によりここも盗掘されかかったが、あまりに大きくてあきらめた。石がでてきてコーナーの隙間に竿を突っ込んでみたけど底には届かなかった。そのため盗掘をあきらめた。
(8)後円部は平な畑だったが、今は40年かそれ以上経て沈んだところがある。 (ビデオの最後に角谷が沈んだところを後日調査した結果を示す。)
(9)三垣千秋氏の家は後円部の真下にあり、幼稚園か小学校のころ(1955年ころから)ここでよく遊んだ。また、大雨で土砂崩れがあった。家の納戸まで土が入ってきて、親が三垣氏の安否を非常に心配していた。その時に、上の層と下の層がはっきりと分かれていた。上の層は、盛り土で黒い土であった。崩れたのはこの盛り土であった。
(10)三垣氏の家は、古墳の1段目にあり、土砂崩れの時に崩れ面を見ると下の層の真砂土は3mか4mくらいまであった。造山古墳は地山の上に、黒っぽい土を運んで作っていた。その証拠がここにもあった。その後、危険防止のため1段目から2段目に上がるのり面を切り落として石垣を作った。
(11)子供の頃、後円部の北側の2段目に等間隔の穴があった。後でわかったことだが、埴輪を盗掘した跡であった。
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