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2016-02-04

浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して

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浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して 清水宗治辞世の句

Wikipediaから引用:天正10年(1582年)、織田信長の家臣・羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、4月、高松城攻め(備中高松城の戦い)にかかった。高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落を誇っていたため、攻城戦は持久戦となった。5月8日5月29日)に入り軍師・黒田孝高の献策により城を堰堤で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえるものが開始された。これにより低湿地にあった高松城を水没させようというものである。世に言う「高松城水攻め」である。人夫に過分な金子を与え突貫工事で11日後に堤防が完成。折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ城は見事に水没した。

ここに信長を招く準備をしていたが、6月2日6月21日)、本能寺の変が起こり計画は頓挫した。翌日、光秀の毛利軍への密使を秀吉軍が拘束。密書で信長の死を知った秀吉軍は毛利軍に知られぬよう密使を暗殺してこれを秘匿し毛利方の外交官・安国寺恵瓊を仲介役に和議を成立させた。城兵の命と引き替えに4日23日)、宗治は切腹。秀吉は主君の仇敵・明智光秀と対決すべく「中国の大返し」を行い、強行軍で近畿に引き返した

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